マイナー歴史

マイナー歴史の出来事、人物

蘆名家中興の祖 蘆名盛氏

天文の乱

蘆名盛氏は1521年に蘆名盛舜の次男として黒川城に生まれました。幼名は四郎丸と言います。

盛氏は、本来ならば次男のため、家督は継承できなかったはずなのですが、兄の氏方の母が遊女であったためか、盛氏が生まれると黒川城を追い出された。これが原因で後に氏方は、蘆名家に謀反を起こすことになる。

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蘆名氏は会津で勢力を張っていた大名ですが、会津全域を支配はできず、近隣の有力家門である松本家が何度も反旗を翻していたため、思う通りにいかなかったようです。

1537年に伊達稙宗の娘を正室に迎えると、1541年蘆名盛舜が隠居し、盛氏に当主の座を譲り渡した。当主になってすぐのこと、蘆名氏を揺るがす事件が起こります。奥羽の覇者である伊達稙宗と晴宗の争いである天文の乱です。

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f:id:yoshiya-abe-01-02:20190124084637j:image上が稙宗で下が晴宗です。

蘆名氏は先代の盛舜の代から伊達家と同盟関係であり、盛氏の妻が稙宗の姫であったため、必然的に稙宗側につくことになります。当初は味方が多い稙宗側が優勢でした。しかし、同じ稙宗側の田村隆顕とは、元から領土が近かったことから抗争が多く、不仲でした。そのため、盛氏は稙宗側から晴宗側に寝返りました。盛氏が晴宗側に寝返ったことにより晴宗はその力を盛り返し、盛氏に続いて寝返るものも続出したため、晴宗の勝利でこの戦いは終了します。

 

蘆名氏の中興

天文の乱で勝利した、盛氏は田村家への侵攻を開始します。しかし、田村家は常陸の佐竹家の支援を受け抵抗を続けます。

そこで、盛氏は佐竹の敵である北条家と手を結び佐竹の支援を受けれないように画策します。しかし、ここでも松本家が反旗を翻します。なかなか思うように領土を広げられない盛氏は、より一層強敵佐竹に牽制を仕掛ます。上杉謙信が死に上杉家のお家騒動が起こると、北条家の支援をする形で介入します。佐竹とやり合うためには北条家の協力は不可欠でした。盛氏は内政の強化にも努めます。金山開発に力を入れたり、簗田氏を商人司に起用することで、流通支配の強化を図った。1561年に庶兄である氏方の謀反を鎮圧すると、息子の盛興に家督を譲った。

 

蘆名氏の衰微

家督を譲ったあとも引き続き政治・軍事面の実権は、盛氏にありました。1563年に二階堂家に、攻め込みました。二階堂家は当主の二階堂盛義が晴宗の長女阿南姫を娶っていたため、晴宗も参戦してきたものの、伊達、二階堂連合軍を粉砕した蘆名家が1566年に勝利を収めた。この際、二階堂家からは嫡男の盛隆が人質として送られたため、伊達家も四女の彦姫を盛興の妻として迎えることで講和しました。1574年には、伊達実元と共に、二本松義国と大内義綱を破り、かねてからの宿敵であった田村家を滅ぼした。しかし、ここで蘆名家を揺るがす大事件が起きます。当主である、長男盛興が29歳の若さで死んでしまいます。盛興には、子はおらず、盛氏の子も盛興だけだったため、二階堂家からの養子である盛隆が当主の座に着きました。この時代、他家からきた養子を当主にするということは、少なからずありました。しかし、蘆名家は度重なる出兵により、疲弊仕切っていました。それに新当主の盛隆は元は二階堂家の人質という身分であったため、重臣との不和という問題を抱えてしまった。そのいざこざのなか、1580年に盛氏が多くの課題を残し死去してしまいました。

 

その後

盛氏が死んだ後、父の二階堂盛義と共に二階堂家の勢力向上に務めたため、重臣からの不満もさらに、深まったと言われています。外交面では、織田信長接触したりするなど、一定の成果は挙げたものの、家中の統制はできず、1584年に家臣の大庭三左衛門に暗殺されました。息子であった亀王丸もわずか3歳で夭折し、家臣団が揉めに揉めた結果、盛氏の代から争っていた佐竹義重の子・義広を当主に迎えましだが1589年に奥州統一を目指す伊達政宗摺上原の戦いにより大敗すると、実家の佐竹家へと逃走し、蘆名家は没落。佐竹家へと戻った義広は盛重と名前を変えた。盛重の死後、幼かった千鶴丸が当主となったが事故死し、蘆名家は滅亡した。

 

まとめ

蘆名家は盛氏によって中興を迎えたものの、盛氏の息子が1人出会ったため、結果的に滅亡に向かってしまいました。歴史にもしはありませんが、もし盛氏の子供が沢山いればどうなっていたのでしょうか。

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