マイナー歴史

マイナー歴史の出来事、人物

北の交易王 斗星北天 安東愛季

北の交易王 安東愛季の誕生

安東愛季(あんどう ちかすえ)は天文8年(1539年)に出羽の戦国大名である。安藤舜季(あんどう きよすえ)の子として生まれた。当時の安東氏は檜山安東家と湊安東家に分かれていたが、愛季の代で、両家は統一された。統一したのには、色々な諸説があり不詳であるが、婚姻関係や養子縁組によって檜山系であった愛季が事実上、湊系を吸収したとされるのが1番有力です。当主になった後、半独立勢力であった浅利則祐(あさり のりすけ)を討って、その弟勝頼を傘下に置き勢力で拡大した。その後、南部領を侵攻したが南部晴政によって阻まれました。

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愛季の政治手腕

愛季はそれまで湊家が低率の津料を払うことで認めていた、雄物川上流域の大名・国人による湊における交易を統制することによって、旧来の蝦夷地貿易などの外海交易に加え河川交易への統制強化を断行しつつ、土崎港を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げた。また、近隣国人衆への支配も強化しようとしました。しかし、これに反発した元湊安東氏家臣であった豊島玄蕃(とよしま げんば)が1570年に湊騒動を引き起こした。これに同調した大宝寺氏が由利郡に攻め込んだが大宝寺側の自滅したことにより優勢に戦いは進み逆に三崎山を越え酒田まで攻めこんだ。

 

安東家最盛期

愛季は政治手腕だけではなく、外交面でも功績を残した。1573年から本能寺の変が起こる1582年まで織田信長(おだ のぶなが)と毎年贈り物を送るなどをして、親交を深めた。信長の死後は豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と通じるなど中央権力と深く関わろうとしました。1577年には従五位下に1580年には従五位上侍従についた。

 

斗星、落つ

安東家の最盛期を築き、秋田郡檜山郡・由利郡を支配し、安東氏の最大版図を築いた愛季。彼はまた宣教師ルイス・フロイスからも存在を認知されるほどの人物だった。愛季は文武に秀でており、その才智は「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された。しかし、そんな愛季も最後は、角館城城主・戸沢盛安(とざわ もりやす)との戦い中に陣中にて病死した。1587年、享年48歳だったが。

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