マイナー歴史

マイナー歴史の出来事、人物

夜叉九郎 戸沢盛安

夜叉九郎 戸沢盛安の誕生

戸沢盛安(とざわ もりやす)は永禄9年1566年に出羽の角館(かくのたて)城で戸沢道盛の次男として誕生した。戸沢氏は平安時代末期の伊勢平氏の武将であり、平清盛(たいら きよもり)の叔父である平忠正(たいら ただまさ)の孫である平衡盛を家祖とする東北では名家の一族だった。戸沢盛安の父である戸沢道盛(とざわ みちもり)は父である秀盛(ひでもり)が若くして死んでしまったため6歳で家督を継承したが叔父の忠盛(ただもり)が後見人についたのち、クーデターを企み母と共に城外に追放された。しかし、クーデターに反対する家臣団の結束により、クーデターは結果的に失敗した。難を逃れた道盛は最初こそ、侵攻にあり、戸沢氏の重要拠点である淀川城を奪われたが、家臣団の奮起や母の説得により、家中をがまとまると仙北1郡の大部分を平定した。f:id:yoshiya-abe-01-02:20190125220913j:image

 

夜叉九郎の躍進

盛安は病弱であった兄の盛重に変わって、13歳で当主となり、角館城城主となった。この頃には、家臣団の掌握や領国経営も安定し、南部家からの独立へと奔走することになる。1582年には小野寺氏と共に、大曲平野を巡って対立を深めるが、最上と連携し、小野寺に脅威を与えた。同年には、安東愛季と戦い、1000の兵で勝利した。この時、負傷した兵には、一切危害を加えず返したという。やがて北浦郡を平定すると、盟友楢岡氏の協力を得て、小野寺氏を倒し、上浦郡にまで進出した。

1587年に戸沢氏と安東氏との仙北郡での優劣を付ける戦いである唐松野合戦が行われた。4月2日に安東側は騎兵700と雑兵を合わせた3000が支城の荒川城に目指し、唐松岳の麓に着陣した。それを見た盛安はわずか1200の兵を角館から出陣させた。合戦が始まると、両者は激戦を展開し、3日目にして、決着がつき安東側が300、戸沢側が170程の犠牲者が出た。結果は安東側の敗退で終わったのだが、その後も唐松野の陣を張り睨み合った。しかし、安東家当主の愛季が陣中にて病死してしまい仙北の国人衆が盛安に味方したため、侵攻は失敗に終わった。

 

夜叉の外交術

盛安は家督継いだ当初に、その時勢力を広げていた織田信長に謁見することにします。しかし、彼の家臣である前田利信(まえだ としのぶ)が勝手に自分をあたかも領主であるかのように語ったため、利信に領土安堵されてしまうなど最初は、うまく行かなかったが、織田信長が本能寺で横死すると、豊臣秀吉と誼を通じ、1590年の小田原征伐では、いち早く駆けつけるため、海路で京都まで行き、小田原に行くのだが、小田原に行くまでには大井川という巨大な川がありました。しかし、この時期大井川は雨のため増水していました。家臣達は渡ることを止めたが

「太閤殿下に忠義を見せるのに、一夜たりとも遅参はできぬ! 増水などに負けてたまるか! 」

と川に飛び込み、気合いで泳ぎ切ってしまった。

そして、その言葉どおり奥州の武将の中で1番先に駆けつけた。その恩賞から刀を賜り。北浦郡4万4000石を安堵された。

そんな順風満帆に思えた盛安だったが、小田原城落城前に25歳の若さで突然死んでしまった。

彼の死後、兄の盛重(もりしげ)によるクーデターにより戸沢家は1度危機を迎えるが、結束の強い家臣団により、阻まれた。その後、戸沢家は東軍につき、新庄藩6万石を築き、家名は幕末まで続いた。